屋上庭園の文学ブログ

日本文学に関すること、興味を持った映画の感想、観劇レポなどを書いていきます。

『プーと大人になった僕』のプーさんがかわいすぎる

ディズニーランドのアトラクションで最も楽しいアトラクションと言ったら、ビックサンダーマウンテンでもスプラッシュマウンテンでもなく、プーさんのハニーハントだと思う。

 

あのアトラクションのあるエリアのはちみつの香りがたまらない。はちみつ味のポップコーンを食べながらよく列に並ぶ。

 

アトラクションの初めにクリストファー・ロビンが風船じゃはちみつはとれないよ、というと、プーさんがとれるよ、と答える。

 

なんてことのないシーンだが微笑ましい。

 

この映画は、かわいい少年だったクリストファー・ロビンが夢も希望もない大人になっていて余暇に妻子とゆっくり過ごすことさえできずにいる。

 

そんな彼のもとにプーさんが突如としてあらわれる。

 

内容どうこうよりもこのプーさんがかわいくてたまらない。はちみつで足をべとべとにして歩いて「この床ベトベトしてる」と言ってみたり、見えたものを言うゲームというのをやって仕事で忙しいクリストファー・ロビンをイライラさせたり。

 

僕もぜひあんな素敵なくまさんに仕事を邪魔されてみたいものだ。

 

川端康成『雪国』は不倫小説?

川端康成というと日本人で知らない人はいない超有名作家で、ノーベル文学賞受賞の名誉ある作家として知られる。

 

私もこの作家は大好きでこれからも度々取り上げようと思っているのだが、知名度の割に作品が読まれていない作家だという気がしてならない。

 

代表作『雪国』についても、冒頭の一文は知っている。だけどどんな小説かは知らない。そんな人も多いようだ。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 

この一文の効果については、日常世界から非日常の世界へ。こちら側の世界から向こう側へという境界をくぐる意味が認められよう。

 

宮崎駿アニメの『千と千尋の神隠し』のトンネルとおんなじである。

 

リアリズムではある。しかし夢幻でもある。

 

雪国に向かう汽車の中で主人公の島村は葉子というヒロインの目を「夜光虫」と見る。こんな感じだ。

 

瞳のまわりをぼうっと明るくしながら、つまり娘の瞳と火とが重なった 瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

 

実に、美しい。

 

島村はこの葉子に惹かれつつ、芸者の駒子との恋を楽しむのだが、島村には妻子がいるのでさみしい駒子を救ってやることはできない。つまり、深入りはできない。

 

島村にとってこれは雪国という異界における出来事なのであり、妻子のもとに帰れば日常が待っている。

 

それから島村は無為徒食の徒であり評論家などと言っているけれど定職は持っていない。

 

文学的な夢幻のフィルターを通さずに見れば無職のろくでもない亭主が金のあるのをいいことに浮気して遊んでいるトンデモ小説なのである。

 

夢幻のフィルターを通すからこそ世界は美しく見える。文学の偉大な効用であると思う。

中島敦「山月記」について

誰もが一度は読んだことのある(読まされたことのある)中島敦の「山月記」について。

 

李徴というプライドの高い主人公が虎になる話としてご記憶のことだろうと思う。

 

「彼は自分の才能を過信し、周りの人々のことを見下し、家族のことさえ考えなかったあまり虎になるという罰を受けることになった。人間利己的であっってはいけないのだ。」

 

おおよそそのような読まれ方をすることが多いように思う。

 

だけど、この作品は本当にそのような教訓をわれわれに投げかける寓話なのだろうか?

 

官僚としてのエリートコースを進んでいた彼が、職を辞して家族に迷惑をかけてまで追い求めようとしたもの。それは、文学の道に他ならない。

 

「下吏となって長くひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年にのこそうとしたのである。」

 

「他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百ぺんもとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今もなお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我がために伝録していただきたいのだ。何も、これにって一人前の詩人づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。」

 

「本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。」

 

これだけの引用からもいかに李徴が文学の道に情熱を持っていたかが感じられると思う。

 

意外なことに、李徴は虎になったあとも、辞職して文学の道に入ったことを後悔していない。官僚の道を突き進んでエリートになればよかったとは微塵も思っていないのである。彼が後悔しているのは、「こうすれば偉大な詩人になれたかもしれない」というそのことだ。ここに気が付かなければ作品のキーワードとも言うべき「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」を読み誤ると思う。

 

「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。」

 

戯れに入試問題風の言い方をすると、「李徴が気が付いた「それ」とは何か?何を思って彼は悔いを感じるのか?」

 

もう答えは出ていることと思う。